パフォーマンスについて






















archaicさんの言葉をうけて

胎児と羊水のイメージというのは 
僕にとってはまったく頭になかったんだけど 
ああそうなのかもしれないと思わせるイメージでした 

今回は「巣」というタイトルをつけていたけど 
それは複数の作品を卒業制作一点にまとめる為の方便的なタイトルで、
けっこう前にカタログの関係上つけさせられたものなので、 
自分でも展示が完了した時点で、まだしっくりと飲み込めない感じがあって、
それをつなぐ為のパフォーマンスでした

「巣」というのは自分にとってなんだろうということを思いながら考えていて、 
それに今までのパフォーマンスはもうやらなければならないという美術と関係ない
内的必然性から行われた為に、何をするかが 
かなりあいまいなものを含んだまま踏み切られていて、その場でつなげていくことが、
ある自己開放、自己解消になっていたけど、 
今回のはそういう必然性が個人的物語の中で消滅していて、 
美術の中での必然性に立脚していた為に、 
パフォーマンスの内容が、行われる前にほぼ完璧にイメージされ、
疑似体験された上で行われたために、することでつながるという自己解消はなく、
イメージと現実のギャップが体感されていた 
むしろパフォーマンス後の展示風景にある開放感があって、 
美術的必然性に立脚した、作品の空間創造の一部としてのパフォーマンスという位置付けだったと思われる 

それに今回触れるという観客とのコミュニケーションが初めて試みられ、
むずかしいなという感想があり、大学の自分のアトリエという、
美術的にある堅さを持った状況で僕のパフォーマンスを見に来た観客というものとの対
峙はむずかしさを感じた 

場から生まれるイメージの結論としてのパフォーマンスがあって、
その内容は自分ではなぜそうなったかは考えないし、やった後にわかることだけど、
胎児と羊水というのは自分のしたことを思ってみると、けっこうしっくりくる言葉で、
はたして全部見た人がそういう風に感じたかは興味深いけれど、 
一部分を見て立ち上がったイメージもまたその人にとっては必然であり、
僕にとっても大切なイメージを含んだ言葉です 
こういうかたちでイメージがつながるというのはおもしろい気がしました 

パフォーマンスの位置付けが僕の中で変わってきてこれからどうなるかわかりませんが、
また行われることがあれば見に来てください 








archaicさんの日記

http://d.hatena.ne.jp/archaic/20050128#1106989288